森羅万象

目に映る全てのモノが教えてくれるので、森羅万象に学びたいと思います。
(森羅万象とは宇宙に存在するありとあらゆる事象のこと:Wikipedia)
記事は前半と後半に分け、数回に渡って書きますから最初の記事を読んだら皆さんも考えてください。
後半は前半の下に続きます。
新しいタイトルの記事は上に追加されます。





<SAMEGAME1>(2008年9月12日)


これは「サメガメ」と読むのか、「セイムゲイム」と読むのか分かりませんが
私は「サメガメ」と読んでいます。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~takka/html/js.html
これは面白い。
ソリティアよりさらに頭を使わないで出来るゲームです。
これを一日10回×毎日×10年以上=何回だ?

このゲームはまぁ頭も使うことは使うが、直感とか勘の比重も高いのではないかな。
私は頭を使うことが嫌いなので、専ら「勘」を頼りにこなすゲームが好きです。


で、このゲームは200個のコマを消して「0」にするとクリアです。
しかし実際は一桁にするのが精いっぱいですね。
私の最高は「2」ですが、十番代(10〜19)なら一応自分なりに合格のような感じです。
二十番代(20〜29)ならまあまあかな。
30以上だったら、これは失敗したダメだった、と思います。
40以上だったら、かんりダメですね。
50以上コマが残ったら(こりゃヒド、いったいどうしちゃったんだろう?)って感じです。

考えないと言っても、そりゃ最低限は考えますが、或る日、思いついた。
(全く考えないでやみくもにやったらどうなるだろう?)と。

<SAMEGAME2>(2008年9月18日)


で、適当にクリックしてコマを消していきました。
すると、やはり50個くらい残ってしまう。
たまに20個台の時もありますが、平均50個くらいですかね。

当然のことながら、めちゃくちゃやってもコマは消えないのです。
やはり地道に真面目に考えながらコマを消して行くのが通常の方法であり、
多くの人が普通にやる方法です。

その、普通のやり方が勝利を導く。
(閲覧者のNさんは先日SAMEGAMEクリアしたそうです)

上手く行かないと投げ出したくなる時があります。
その時、悪い意味でいい加減、適当にやれば・・・もっとダメになる。


<石の下の虫1>(2008年9月4日)


家の裏に置いてある漬物石やブロック、植木鉢をどかすのって、嫌ですよね。
だって必ず日陰が大好きな虫が居るから・・・

ダンゴ虫やゲジゲジ、ナメクジ。
たまに百足までいます!
何でこの連中は日陰が好きなんだろう?

<石の下の虫2>(2008年9月8日)


何でこの連中は日陰の、薄暗い、ジメジメした石の下なんかが好きなんだろう?
と、疑問に思うが、彼らはそこが好きなんだからしょうがないです。

これって人間でいえば「大変波動の低い、人間の集まり」に似ている。
たとえば職場です。
そこに居る人皆、真面目にやってはいるが楽しそうではなく、
ストレスの発散場所を無意識に求めている。
無意識なので、メンバーにはその自覚は無い。
そこへノコノコと新人が採用されて入って来た。


私達の苦労も知らず、この新人はニコニコしている、許せない、真面目にやれっ!
と、いうことを無自覚で感じろくに教えもせず、新人が失敗すれば新人のせいにして
叱責しては鬱憤を晴らす、みたいな。
本はと言えば知らないうちに鬱憤を溜めているのが悪いのですが、
メンバーにはその自覚がありません。
メンバーは皆、険しい顔をして一生懸命仕事をしている、そんな職場。

明るい人が嫌い。

明るい人は苦労知らずなので明るいのだ、何も考えてないから明るいのだ、と
悔しく妬ましくてしょうがない苦しい。

あいつが悪いんだ。
アタシはこんなに苦労しているのに、何でアイツは専業主婦でのうのうと生きてきて
苦労知らずで、アタシ達と同等になれるとでも思ってんの?
冗談ぢゃないわよ。
思い知らせてやるわ。
ほおおおおうら、いい気味w


のような、思考回路に陥っている人が実際にいますよ。


さて、上のような職場にノコノコと侵入した明るい新人さんがいます。
善人なので(これは大変だ、この職場が少しでも明るくなるよう、努力してみよう)
と、努力したら、さらに、メンバーから攻撃される羽目になりました。

何故?

メンバー達は「明るくなんかなりたくない」のですよ。
「公明正大」なんて大嫌いなのです。
「平等」「平和」「率直」「正直」なんて言葉は、知ってはいるが、そのような
境地になったことがないので知らない。
興味もないし知りたくもない。
それを、知らせよう教えようとする人が大嫌いだ、余計なことをするな。
と、思うのが石の下のメンバー。


好きなのは・・・
「暗い」「意地の悪い」「陰険な」「他人の言葉を悪く受け取る」「誤解する」
「常に物事は悪く捉える」「穢い」「他人を蹴落とす」「差別する」
「仲間うちだけで親和する」「徒党を組む」「仲間に入れない」「寄せ付けない」
「本当のことは言わない」「悪意を持つ」「妬む」「羨む」「蔑む」「憎む」・・・

この新人さんがメンバーから好かれるためには、メンバーと同化して
一緒になって他人の粗さがしをして批判し、暗くなることでしたが、
この新人さんにはそれが出来ませんでした。
皆で暗くやっているところへ一人明るい意識でいれば、攻撃されますね。
それが暗い人達の存在理由ですからね。
それをしないと生きてる意味が無いのではないでしょうか?
勿論自覚はありません。
悪いのは全て新人の方、ということになってしまいます。


だって
「世の8割は獣の入れ物と成りている」んですよ、こういうのが普通です。
マットウな人の気持ちなどは、相手もマットウでない限りは通じないのです。

そこで、メンバーと同化すればそういう職場では何事もなく過ぎるけど、
それはつまり
「石の下の虫」になる、ということです。
これが平気ならやれますが、これが平気では無い人がいるんです。
生理的に石の下の虫にはなれない人がいる。
理屈では無いんですよ。

「こういうコトは良くないことだから、やりません」という理屈では無い。
それ以前の問題なのです。
つまり、魂の質に起因しているのです。
(※日月神曰く「上・中・下と、御霊には三種類がある」)


私は何も職場で新人を苛めている人を虫呼ばわりして蔑んでいるのではない。
それを言ったら虫に失礼です。
たしかに石をどけたらそこに虫がうじゃうじゃいれば驚くし
気持ちが悪いが、私は彼らを軽蔑したことはありませんね。

虫は虫の生き方をしているだけで崇高ですが、人間が石の下の虫の生き方を
しているのは本来の生き方ではない、と言ってるだけです。

まぁ、どう生きるのも自由ですから人間として生まれても石の下の虫の如く
暗くジメジメした生き方を選んでも良いわけですよ。
職場でワケが分からないうちにメンバーの攻撃にさらされた新人さんも
石をどけたらメンバー虫がうじゃうじゃ居て、びっくり仰天しただけだと思って
ひとつ勉強したらよいのです。
それだけです。


<ソリティア1>(2008年8月16日)


数年前にパソコン教室で、パソコン内にソリティアの機能があると教わった私。
その日から今日(こんにち)まで、毎朝ソリティアをしている私です。
最初はなかなかクリアしなかったが、だんだん上手くなってきました。

<ソリティア2>(2008年8月24日)


ソリティアは必ず上がる(クリアする)というゲームではありません。
クリアしない場合がある。

カードが全く移動できない時もあります。
手も足も出ない、という感じです。

途中までは順調に行くが、最後に来て上がらないことも多い。

途中まで四苦八苦するが、最後に来てクリアすることもあります。

これ、人生に似ています。

<ソリティア3>(2008年8月27日)


手も足も出ない、絶対上がらないケースは別として、
ボケっとしていなければ上がれるケースがあります。

知恵を使えばクリア出来る。
それからやはり場数を踏んだ方が、いろいろなケースを経験できるので、
失敗したことも後から考えると、プラスになっているものです。
また、通常の方法(下のカードを上に置く)ではなく、
いったん、上に置いたモノをまた下に持って来て・・・という妙手も浮かぶ。

とかね。
いろいろ考える余地があるのです。
それなのに知恵も経験も乏しいくせに
「カードの並び(順番)が悪いせいだ」と、失敗や不運、不幸を周囲の環境のせいに
する場合は普通にあるのではないか。

たとえば、ソリティア一回を一度の人生とすると、
転生するたびに魂に経験値がつくので、少しのことでは負けない逞しさが
身についているとか、あるのではないか。


一度の人生=一度のソリティア

手も足も出ないケースならしょうがないが、自分の潜在意識にある経験値と
無い知恵を振り絞って立ち向かう(だからゲームに)ことが
求められるのではないかな。

私のように考えることが嫌いな人間は、なかなかソリティアのコツというものを
分かることが出来ませんでした。
何も考えないでゲームをしてもちっとも上達しません。
ところが、何度もやるうちに(そぉねぇ、一日少なくて10回×365日×約8年=?回)
やっていれば、どんなバカでも或る程度のことは出来るうようになる。


閲覧者の方の中にもソリティアが好きな方(男性)がいて

ソリティア嵌ってますね!

私は子供のときに
「トランプの一人遊び」
という本でこのゲームを覚え、
よく1人で遊んでました。
(PCでできると楽やな〜)

この本によると、
ソリティアの成功確率は1/7くらいだそうです。
私はPCで6連勝の記録があるので、
その確率は何と約12万分の1!

これに飽きたら今度は
スパイダソリティアいかがですか?
成功確率はぐんと落ちますが、
輪を掛けて面白いですよ!


と、こういうことを言ってますが、はまると楽しい。
また、必ず上がるゲームでは無いところも面白い。
一か八か、ってところが面白いのです。

最初のカードの並びはたしかに不公平だ。
でも、自分に与えられた不公平なカードに対して文句を言っていたらゲームは出来ない。
苦しい中でも(カードの並びが親切では無い場合のこと)
無い知恵を振り絞り挑戦するところにゲームの醍醐味はあります。

<ソリティア4・・・チャンス>(2008年8月28日)


それからソリティアをすると、その時、上に出さなくてはならないカードに
気付かず、出し忘れてしまうことがあります。
普通はそういうことは無いのでしょう・・・
ところが私はすっごくおっちょこちょい、粗忽、不注意、惚け老人なので、
それをしょっちゅうやってしまうのです。
(またヘタこいた!)


一度出すべきカードを出し忘れると、次にそのカードが出てくる場合と
出てこない場合とがあります。
大抵は出てこない。
カードの束に戻ってしまうと、順番が変わってしまうので、もう出てきません。

たった
一度のチャンスを逃すのです!

はああ・・・

こういうとき私は(なんてバカなんだっ!)と、堕ち込みますが、
普通はそういう不注意はしないそうですね、皆さん。
私なんてこんなモンなんですよ。


さて、私が言いたいのは、これも人生の途中に現れるチャンスと似ている
ということなのです。

チャンスは来る。
でも、逃す場合が多い。
それは本人が不注意だからです。

一度逃したチャンスはもう戻って来ない。

たまにカードの順番が変わらず、また同じカードが出て来てくれることがある。
一度逃したチャンスが来てくれました!(泣)
人生にはこういうコトもあります。

チャンスは一度だけとも言えるし、二度三度と来るとも言えます
いずれにせよ、チャンスは掴まないとゲームは上がれません。
時間を戻すことは出来ないのです。



<彼岸花1>(2008年8月1日)


我が家の裏に小川が流れています。
その土手は人が通れるような道になっています。
その向こうは水田で、近所には杉林もあり、竹林もある。
のどかな田舎の景色です。

特に良いのは秋になると、彼岸花が土手の脇に一列に咲いて
端から端まで赤い帯のようになるのが何とも言えず、良い風情。

でもその前に、夏になるとここらへんの地主の人が
人を雇って土手の雑草を刈り取らせるんです。
機械で刈り取るやつです、名前は知らないけど。
で、刈り取った土手にしばらくすると赤い彼岸花が咲く、というのが
毎年のこと。

ところが或る年の夏。
刈り取るおじさんが病気になってしまったようで、
代わりの人も見つからなかったのか、土手の雑草は伸びほうだいでした。
彼岸花も咲いているんだけど、雑草に隠れてしまっていました。
私は、彼岸花を見たいので、カマを持って彼岸花の周囲の雑草を
刈り取ることにしました。

ところが・・・

<彼岸花2>(2008年8月4日)


彼岸花の周りの雑草をカマで刈ったら、何と、彼岸花まで倒れてしまう。
(あれ?)
変だなと思って、そこらへんの雑草を刈り取って彼岸花だけにしてやりましたが、
彼岸花は全部倒れてしまいました。
(おいおい、おまえは倒れなくていいんだよ)
おかしい。
何故一人で立たないんでしょう。

<彼岸花3>(2008年8月6日)


彼岸花は成長期に周囲の雑草に寄りかかって生きてしまった。
なので、自分でしっかりと自立する必要が無くなったのです。
なので、私が回りの雑草を刈り取ったら、
自力で立っていられなくなってしまったのでした。


この様子を見て、まるで「親が甘やかし、過保護に育てられた
子供を連想しました。
そういう子は大人になり親からいきなり「自立しなさい」と
言われてもそりゃ無理、とばかりヘナヘナと倒れてしまう。

私の友人にもいました。
母は物凄く心がきれいだが物事に疎かった。
子供を躾けることが出来ません。
自立の方法を全く教えない。
でも、父親はさらに輪をかけて分からない人で、
そんな子供に向かって「18歳になったら家から出て行くように」
つまり自立するように、まだ小さいうちから言い渡していたのです。
で、子供は自立出来る人間に育ててもらえないのに
家から出て行け、自立しろと言われて、とうとう
高校中退〜ひっきー、ニート〜
素質の良い子なのに親が分からずやだとこうなります。
(※私は中退についてはどうでも良いと思う。
   生きていれば良い、犯罪犯さなければ良いと思う。
   でも、そういう子の親に限って大学へ行かせたいとか
   学歴には拘っていたりするんです)


この家だけでなく、日本中にいると思いますよ、
自立できるように育ててもらえず、或る日突然自立を迫られる子が。

自立出来ない彼岸花が教えてくれました。




我が家の裏を流れる、小川沿いの土手に咲く彼岸花。
手前は水田で奥は小川、その向こうに植物が生い茂っています。
川には鯉も泳いでいる。(2008年9月21日撮影)



<ぶどう棚1>(2008年7月28日)


我が家の庭の、主人の部屋の窓の外にぶどう棚があります。
数年前に小さな鉢植えを買って来ました。
それを庭に植えたらどんどん伸びて植えた年にぶどう棚が作れるほど大きくなった。
知り合いの庭師に来てもらって鉄パイプでぶどう棚を作ってもらいました。
主人の部屋は東向きなので、これで夏場の日差しが少しは和らぐと思ったのです。

ぶどうのつるの伸び方は凄いですね。
ぶどうの実も毎年生り、見てるだけで楽しいです。
私はぶどう棚の上の部分がぶどうの枝で天井のようになるのを夢見ていましたが・・・

<ぶどう棚2>(2008年7月29日)


私が(こっちに伸びて欲しい)と、思う方向に伸びないで
(あああ、そっちはダメだダメだ!)という方向にすくすく伸びてしまうんですよ。
で、私も(そっちじゃないんだよっ!)とばかりに、剪定ハサミで切ったり、
紐で結えて位置を決めてみたり・・・でも、そこで定着してくれるかと思いきや、
私がこうあって欲しい方向には伸びない。

中には枯れてしまう枝も出て来る始末。

いったいこれって・・・

悪戦苦闘すること数年間。

今年やっと悟りました。

そうか、これって子育てのようなものだな、と。

<ぶどう棚3>(2008年8月4日)


私は子供の自由にさせていて、世の中の親に対しては
(もっと自由にさせればいいのに)と、思っていました。
例えば、子供の職業を決めている親がいまだにいます。
そういう人の気持ちが分からなかったが、
自分がブドウ棚を作ろうと思ったことによって、ああ、こういうコトか、
と分かった。

つまり、私は個人主義なので、ひとはひと、自分は自分と思っている。
だから、子供には子供の人生を生きてほしいので特に要望は無い。

でも、ブドウ棚に関して言えば、私はブドウでは無いので棚になれない。
だから、ブドウに頼んで、というか、成長してもらって、立派な棚になってもらおうと
思うわけです。
ブドウ自身が棚になりたいのかなりたくないのか、そんなことはお構い無しで。


子供に要望をする親、期待する親は、自分がやれないので、子供にやってくれ、と
託すのと同じことを、私はしていた、と分かった。
ここで良く考えれば、子供に託すのは間違いであると分かるが、
殆どの人は思考しないので、相手が人間なのに、ブドウなどの植物に
向かっているかのように、行動(言動)するわけです。
私も思考しないので、ブドウに無理な要求をしていたのです。

子供には子供の意志があるんだけど、それを知らない気付かない。
そんな当たり前のことに気づかない親が多いことはまずいですね。

相手がブドウのような植物でさえ、私に逆らって自分が伸びたい方に伸びて
私の想い通りにはならない。
ましてや人間の子供が親の言う通り、思う通りになるわけがない。
そんなことを思った出来事でした。



<夏みかんの木1>(2008年7月21日)


我が家の庭に夏みかんの木があります。
中古住宅を買ったので、既に庭に植えてありました。
背の高い木ですが、ちっとも実が生りません。
日陰なので、実が生らないのだろうか、左右にも植木があり、
お互いに邪魔をしているのが悪いのだろうか、と思い、
この木を数年前に日向に植え替えました。

すると・・・

<夏みかんの木2>(2008年7月23日)


この木を最初に見てから10年間は殆ど花も咲かず、
従って実もつけなかったのです。
たまに実が一個くらい生っていて(へえ)と、思ってるうちに落ちていたり。
或る年、庭師に来てもらって、夏みかんを植え替えることにしました。
前の年に根回しをしました。

で、次の年に日当たりの良い場所に移したのです。

すると移した年には実は生らなかったが、次の年には3個ほど実をつけた。
その次の年には33個くらい実をつけたので私は喜んだ。
次の年は15個くらいだったかな。
その次の年は何と130個以上の実を付けました。
去年のことです。
今年は7個くらいしか実が生っていません。

私が見る限り10年間日陰に居た夏みかんの木は殆ど実をつけなかったのに
日当たりの良い場所に移したら途端に実をつけるようになった。
やはり夏みかんは日向が合うようです。


人間も同じですかね。
適材適所、という言葉が浮かびます。
日向に向いている人、日陰が良い人がいます。
それぞれの素質、本質、性格、タチ、才能などによって適した場所というものがある。
自分に適していない場所にいると、人間は才能を開花しません。
毎年平凡に過ごしているだけです。
実が生らない=成果を出せない
それは今いる場所が自分に適していないからだ、とも言えます。

そういう人が一念発起して自分に相応しい場所に出て行くと、
人が変わったように楽しく、成果も出せる、ということはあります。


また、もうひとつ。
夏みかんの木は毎年同じように実をつけません。
実が沢山生った年の翌年には実が生りません。
これは木に蓄えられている糖分と関係するのかもしれない。
植物のことは良く分からないけど、以前テレビで百年に一度花を咲かせ、
実をつける植物の番組をやっていました。
その植物は百年間糖分を蓄積するんだそうです。
で、糖分が百年溜まると、やっと花を咲かせて実をつけるんだそうです。
実をつけるには実をつけられるだけの蓄積がないとダメらしい。

それなら夏みかんも同じですね。
夏みかんだけでなく、我が家にはブドウもありますが、沢山生った年の翌年は
実があまりつきません。
親戚の叔母さんが言ってたけど、梅の実も
豊作と不作が交互に来るらしい。

このように年によって豊作と不作と繰り返すようです。
東洋の占いには年によってサイクルを設定しているのがあります。
それはこのように植物の豊作&不作を観察した結果、人間の運命も
このようなものであると考えたためであると、私は思います。

夏みかんの教えは・・・
◇適材適所、自分に相応しい場所がある→新天地を求めよ。
◇運命は吉凶が交互にやってくる(良い時ばかり、悪い時ばかりではない)

と、こんなのが浮かびました。



<水仙1>(2008年7月15日)


我が家の狭い庭に水仙の球根を沢山植えました。
今から10年ほど前のことです。
庭が狭い上、植木が沢山生えている。
ますます狭くなってしまう。

しょうがないので、埋められる場所を探して水仙の球根を埋めました。

<水仙2>(2008年7月18日)


球根を埋めた場所は

@フキ、茗荷、シダが生えている日陰で土が柔らかい場所。
A日当たりが良く、夏には茄子を植える場所。
B物干し台の土台のそば。
C大きな木の根元。
D砂利が多い土の硬い地面。


などです。

この中でDの土の硬い砂利だらけの地面に埋められた水仙は気の毒でした。
土が硬いし乾燥しているので生きるのが大変そうです。
苦難の人生です。

さらに過酷なのはBの物干し台の土台のコンクリートのそばに埋められた水仙。
私が洗濯物を干すたびに踏まれてしまっていました。
そのつど申し訳ないことをした・・・と思いました。

土は柔らかいし肥沃なのに茄子を植えるたび生ごみを埋めるたびに
地面を掘られ、その時水仙の球根も掘られてしまうAの場所があります。
これも激動の運命です。


良かったのは、フキや茗荷が生えている場所と大きな木の根元の、
◇砂利は無く土は柔らかい
◇人に踏まれることがない
◇スコップで掘り起こされることがない
所に埋められた水仙です。

この二か所の水仙は平和で安全な人生を過ごしています。


生まれる場所と環境は選べません。
その環境に生まれたら最後、一生その宿命から逃れることは出来ないのです。
神が気の毒に思って、上記の三つの過酷な運命のもとにある水仙を
堀出して柔らかい安全な土の場所へ移してくれるまで、この宿命は変わらない。

人間はともすると自分が生まれた環境を呪いがちです。
無理もないケースが多いです。
しょうがない。
でも、人間が水仙と違うのは自分で運命を変えられることです。
そこに生まれたのは宿命ですが、人間は自分で運命を作ることが出来る。
諦めてはいけないと思う。



<つばめ1>(2008年7月9日)


もうつばめの雛は巣立ってしまったかもしれませんが、
ちょっと前までは巣の中に4〜5羽の雛がいて、とても可愛かったです。
可愛いので巣を見つけるとその下でしばらく観察します。
燕の巣を見て思ったことは・・・(続く)

<つばめ2>(2008年7月12日)


燕はご存じの通り父燕と母燕で子育てします。
両親共稼ぎの家を連想しますね。
子燕は巣の中にぎっしり並んで入っていて、親燕が居ない時はとてもおとなしい。
騒げば肉食の鳥などに命を狙われるのでね、賢いですね。
凄いなぁ、と感心します。
いや、賢いと書いたがこれは本能ですね。
別に知恵が深いのではなく、本能でやっていることです。

翻って人間は本能だけで子育てが出来るわけではない。
知恵や情報もないと子育てが出来ない。

◇動物=本能だけでOK
◇人間=本能・知恵・情報が必要

なので人間の方が子育てが難しいのです。


だから人間は子育てがヘタだと言えます。
我が家の場合は
◇第1子=情報と言語(理くつ・サヌキ)で育てた
◇第2子=頭(頭の先の知恵)で育てた
◇第3子=心(本当の賢さ・アワ)で育てた
◇題4子=本能(自然の理)で育てた

こうなりました。

子育てが未熟な人は、つまりどこの家庭でも第1子は
「赤ちゃんの育て方」のような情報を得て育てる。
情報から始まるので、理屈の子育てになります。
言語で育てます。
知恵が全くありません。

第2子になると、第1子の時の経験があるので、それらが身についていて、
知恵もあり、落ち着いて育てることが出来る。
母の頭(子育ての分野では)も良くなっている。

第3子になるとさらに知恵がつき、今度は心を使う余裕が出てくる。
赤ちゃん〜幼児のアホさが可愛く見えてくる。

第4子になると親は何も考えずに本能の赴くままに育てることが出来る。
ここまで来ると情報、経験、知恵が身についている状態。
言語はほとんど使いません。
つまり、叱るとか説教するとか、命令するとか、余計な口出しが殆どない。

私はもともと口出しが少ない母ですが、それでも子供が少ない時は
命令や禁止をしていました。
4番目の子には殆ど命令や禁止をしなくても育てられるようになりました。
命令や禁止は出さない方が良いのです。
これを出すと、子供は守りませんからそれに対して叱らなくてはならなくなる。

◇命令、禁止をする
◇子供が守らない
◇それに対して説教

となり、やたら言語が多くなります。
どこの家でも大抵は母親が一日中何か言っているのでないか?


末っ子が保育園時代、ウチに来た末っ子の同級生の母が驚いていました。
あまりにも家が静かなこと、つまり私が何も言わないことに対して驚いていた。

我が家の末っ子がその人の第1子と同級生だったので、新米ママとベテラン母の差ですね。
10年のキャリアの違いは歴然としていました。

私も第4子の子育ての時には本能で育てられるようになりました。
本能と言っても人間ですから、情報も知恵もあるので、動物と同じではありませんが。
子供を自由にさせておき、命令と禁止は最小限、ひたすら可愛がって育てることが出来た。
思えば上の2人まではこういうことが出来なかったので、ダメ母ちゃんで悪かったな、
と思います。
その割にはしっかり者に育ってくれましたが。
いや、だからしっかり者に育ったのかな。


相似象の師匠が言うには
「人間は中途半端に発達した脳のために、
さまざまな不都合を起こしている」
んだそうです。
そして
「脳の機能を最大限にあげることが望まれる」そうです。
その方法が相似象です。
相似象とは物理なんです。
自分で自分の頭を良くする方法。

これを10年やったら(当時)私にも少しは分かるようになり、
動物並の子育てが出来るようになりました。
人間は物凄く苦労して初めて動物並み、燕並みの子育てが出来るのです。



<雑草1>(2008年7月3日)


雑草という草は無い」とは昭和天皇のお言葉。
私の定義では
「種を人間がまかないのに勝手に生えてくる草」のことを雑草と呼んでいます。
天皇には悪いけど。

ところで、雑草取りは
◇地面から上の部分を削り取る
◇根こそぎ引き抜く
◇除草剤を撒く

という方法があります。

私は除草剤を初め農薬が嫌いなので、絶対使いたくない。
虫よけの薬を噴霧するのも嫌です。
とにかく自然でないものは嫌い。

それは関係無いけど、雑草は根こそぎ取りたいですね。
で、根こそぎ引き抜こうとすると、雑草にもいろいろあることを発見する。
(続く)

<雑草2>(2008年7月7日)


雑草を抜くという作業を「説得」とします。
抜けるということを「納得」とします。
そのように仮定する。

すると・・・

◇抜こうとすると地面から上の部分がプツプツ切れるが根は抜けない雑草

があります。
こういう雑草を見ると私は
「はいはいはいはい、負けます負けます、あなたの言う通り。
これこの通りあなたには敵いません、ゴメンなさい、私が悪かった、
二度としません、分かりました、充分、よおおおおく分かりました!」と
言っているかのように感じます。

実際に居ますね、そういうヒト。

分からないのにすぐ謝る人です。
別にこちらとしては怒っているわけでは無いんだけど、そういうレベルの人には
説得=説教=叱責
になっている。
分別がついてない。


今から10年ほど前に近所の子供が我が家の末っ子に
意地の悪いことをしていたので、
後日その母親に「おたくの息子はこういうタチの悪いことをしていたよ。
ちゃんと育てた方がいいよ。」と報告しました。
末っ子のことなので、上の三人で散々もっとヒドイ経験をしているので
別に腹も立たない、ただ、その家の子にとってまずいことであるので
一応報告したのですが、その時の母親の態度は
「はいはいはいはい、分かりました!」だったので、
(こりゃあ、分からないな)と思いました。

案の定、数年後にクラスで苛めの問題が発生した時、この家の子がクラスの子供の
母親達から攻撃(クラスや電話で事実の報告)をされました。
そして初めて自分の子が本当にタチが悪いことを知った。
何故タチが悪いのか?
母親がタチが悪いからです。

他人から事実の報告を受けてすぐ感情的になり、分かってもいないのに
「はいはいはいはい、分かりました!」と言うのは何も分かってない。
(当時私は分からなかったけど、私から言われて感情的になっていたようです)


分かってもいないのに分かった振りをしてその場しのぎで謝るのはまるで
「地面から上の部分は即、プツプツ切れてやるが、根っこは変化しない様子」に
そっくりです。
そして、このような人は至るところに存在しています。

根から抜けるのは別に降参するという意味ではありません。
心から理解する、納得する、という意味で使っているので間違えないよう。


或る人は自分が亭主や彼氏に殴られて来たが今はそれを何とも思ってない、
彼らを許そうと思う・・・などということを延々とブログに書いていた。
何度相手を変えても殴られてしまうそうです。
もし、そうであるなら原因は自分にあることを疑うべきですね。
しかし、この人は他の面からもそんな簡単なことが分からないようでした。
このままではこの先、何人相手を変えようとその都度
「相手から殴られる運命」にある。
ここは一つ本人がそれを自覚し、自分を変えた方が良い、そのお手伝いをしようと、
思いました。
勿論相手から要請は無いのでお節介の類です。

するとこの人は上の人と同じく何度も「分かった分かった」を連発する。
全然分かってないのが分かったので、「いや、あなたは分かってない」と
さらに説明するが、そういう話になるのは大変苦しいのが私には分かった。


悟るとは苦しいものなんですよ。

楽して悟れはしません。

沖縄の聖人だってかなり大変だったようです。
ましてや凡人の私達が何の苦も無く、悟れるわけがないのです。

この人はいくら「分かった」と言っても私が
「いや、あなたは分かってない」と続けるので
嫌になったのでしょう。
その一年後くらいに、ある若い男性に言い寄り
「私はifさんとは距離を置きたい。」と、メールしたそうです。
私は自分が批判されてもOKですが、10歳も若い独身男性に他人をだしにして
迫る、というコトに呆れました。
が、もっと呆れていたのはこの男性。
マジで気持ち悪がり(爆笑)私に「困りました」と相談メールを寄越しました。
「何かあったんですか?」と。

この女性のようなのが多いかもしれませんね。
表面上は分かった振りをし、謝り、従順を装い、内心は反対の人。
私に言わせれば
「そのような心の姿勢(口と腹が裏腹)が、不幸の原因」
なのですが、こんな簡単なことも分からないほど、分からない人でした。


「抜けます抜けます!済みません済みません!」
と言ってるかのような雑草を見ると
こういう種類の人を連想します。
このような態度で生きていれば一生何も悟ることは無いが、本人にとっては
悟ることが苦しいので、それで良いのでしょう。

幸いなことにこのような種類の人は私が嫌いなので(笑)去って行ってくれるので
有難いです。
三次元に生きているので時間の制限がある。
時間は無限では無い。
なので、限られた時間を有効に使いたいので、抜こうとすると地面の上だけが
プツプツ切れる人は申し訳ないが相手をしている暇がありません。

地中の部分、根ですが、それは「我」です。
相手を言葉を理解するには「我」があっては無理。
我を抜いてこそ初めて分かるのです。


物事が分からない人とは「我が強い人」です。



<アカシヤの花1>(2008年6月23日)


我が家の周囲にはアカシヤの木が沢山あります。
正確にはニセアカシヤというらしい。
でも、ここではアカシヤと表記しますね。


アカシヤの木は毎年春になると白い花を咲かせます。
藤の花のように房になっています。
この花房を採って天ぷらにするととても美味しいのです。
毎年花が咲くのが楽しみです。

さて、アカシヤの花が教えてくれたことは・・・(続く)

<アカシヤの花2>(2008年6月26日)


アカシヤというのは大木です。
花は木のてっぺん、上の方から咲いて行きます。
我が家から見えるアカシヤの大木の上の方から白い花が咲き始めたのが
見える春になりました。
でも、下の方はまだ花が咲いていません。

上の方の花は手が届かないので採れません。
なので、下の方が白くなるのを待つことになります。
なかなか下の方に花がついた感じがしません。
そうこうしているうちに春の長雨がやって来ます。
数日間雨ばかり。
たまに晴れた日にアカシヤを見ると下の方まで白くなっている。
花が咲いたのです。

その時、さっと花を採りに行けば良いのですが、夕方だったりすると
疲れているというか、面倒臭くて、(いいや、明日で)と、思ってしまう。
ところが翌日は朝から雨だったりする。

こんなことなら昨日花を採れば良かった、と後悔する。
この時期は空がからっと晴天になる日が少なく、
数日でアカシヤはつぼみから満開〜盛りを過ぎて枯れかかる、感じです。

今年は曇り空の下、アカシヤの木まで行き、つぼみを収穫することが出来ましたが
もっと早く来ていれば、良かったな、という状態でした。
アカシヤは今にも咲きそうなつぼみの状態を採って天ぷらにすると美味しいのです。
花が開ききった状態はいまいちです。


このように自然界は人間の都合に合わせてくれません。
人間が自然を良く見て良く読み、自然に合わせなくてはなりません。
日本人を初め世界中の人は、こういうことをしていたのです。
しかし今は季節も時期もあまり重要ではなくなりましたね。

早くてもだめ。
遅くてもだめ。

「その日、その時」でないと、ちょうど良いアカシヤの花のつぼみは収かく出来ない。
アカシヤの花は「その日、その時」に間に合うよう、
意識を常にそれに向けていなさいよ、と教えてくれているかのようです。
「我を張らず自然に従順になれよ」と、言っているかのようです。
チャンスはあっと言う間に通り過ぎるよ、と言っているかのようです。

「その日その時」とは、なんでも良いのですが、たとえばアセンション。
それはいきなりやってくる、と聖書に書かれています。
人はその日その時も普段と同じように、普通の日常生活をしていて、
何も特殊な日では無いのだそうです。

聖書には「いちじくの葉が色づくのを良く見ていなさい・・・」とかいう記述があるそうですね。
そのように心を自然界に向けて準備しておかなくてはならない、という話。



<竹の子1>(2008年6月14日)


今、竹の子が出る季節です。
私は毎朝近所の藪に入り竹の子を探しています。

うっそうとした竹林で陽もさしません。
地面は今まで落ちた竹の葉の厚い層が出来ている。
倒木もある。
その上に竹が倒れかかっていて、そこを通る際には(くぐるか、跨ぐか)迷います。
東南アジアや南米のジャングルもこうかな、と思うくらい凄い場所なのですが、
私は何故か好きなんですよ。
気分は「ゲリラを探す国軍兵士」。

竹の子は周囲の景色に溶け込んでなかなか見つけられないけど、
これを発見するのがまた楽しいんです。
ああ、面白い。

で、雨が降ると竹の子を採れないので、
数日雨が続いた後竹林に入ると巨大な竹の子を発見する。
高さ2メートル、3メートル、それ以上の竹の子がある。
でも、竹の子です。
皮を被っていて枝が出ていません。

これを見て思いました。

大人と子供の違いを。
(続く)

<竹の子2>(2008年6月16日)


竹の子と竹の違いは人間の子供と大人の違いに似ています。

竹の子は柔らかく、竹は硬い。当たり前。
これはちょうど、子供の心は柔軟で可変性に富み、
大人の心は硬化して変化しない様子に似ています。
子供の竹の子は柔らかいので「他人の食い物になる」可能性がある。
大人の竹はいろいろな用途があり、世のため人のため役に立ちます。
つまり仕事をすることが出来る。

子供の竹の子はもろいので、簡単にポキンと折ることが出来る。
大人の竹はちっとやそっとでは折れません。
これは子供がちょっとしたことで凹んでしまうが、大人は同程度の刺激なら耐えられる
ことに似ている。

子供の竹の子は枝が無くて真っすぐです。
大人の竹は枝があり葉がついていて竹の子を上から保護しているように生えています。
人間でいえば大人は単純ではなく、純粋でもないですね、子供に比べたら。

子供の竹の子はいくら背が高くても子供です。
たとえばとても背が高い中学生がいるとします。
身長180センチもある。
でも、子供なので大人に叱られると泣いちゃうみたいな、そんな感じ。
いくら大きくても子供は子供だなぁ、と思うことがよくあります。
可愛いです。

竹の子も大きくなると、下半分が大人の竹になっているのがあります。
上の方、頭の方はまだ子供の竹の子ですが、
半分から下は大人。
これは人間が徐々に大人になる姿と似ています。
身体は大人並に大きくなっても、頭の方はまだ子供であるのと同じです。

同じ竹林の竹の子ですが、太さには個性があるところも人間のようです。
人間の子供も子供のうちから個性がありますからね。


と、まあ、こんなことを思いました。
で、毎日子供の竹の子を食い物にしている私でした。

それから、竹の子を探すのは意外と難しいんです。
なんたって連中は迷彩服を着ていますから、風景に溶け込んでしまって
見つけるのは大変です。
それを見つけるのが面白いので、毎朝採っているのです。

そして思いました。
もし、竹の子というモノを知らない人が竹林に居たら、竹の子は見つけられないかもしれない。
見つけても、竹の子というものを知らないので、通り過ぎてしまうかもしれない。
私が竹の子を発見できるのは「竹の子というものがある」という情報が
頭に入っているからです。
情報を持っているということは大事だな、と思いました。


そして、竹の子を「疑問への答え」と仮定します。
すると「捜さなければ見つからない」のです。
慢然と風景(事象)を見ているだけでは答えは見つからない。
意識して物事を見なくては。

<竹の子3>(2008年6月17日)

上の記事を読んだAさんからメールが来ました。

さっき、森羅万象の竹の子の話読みました。

なるほど・・・と思いましたよ。

友人の家で竹の子がはえる話をしましたが、
まさに竹の子2の話で・・・

その家には何度も行っていて、
となりが「真竹」の竹林って言うのも知っていたのに
竹の子に気がつかなかったんです。

よく見ている竹の子は、あの太い「孟宗竹」ばかり。
真竹の竹の子を間近で見たことがなかったので
目の前に生えていても、目に留まりませんでした。

で、何年か前に、たまたま或る物産店で真竹を売っているのを見て
「ああ、こういう竹の子もあるんだ〜。買って行こう」
って買って、友達の家に行ったら、庭ににょきにょき生えてる。。。
友達も、「家に来ればいくらでも取り放題だよ(笑)」

知らないと、目の前にあっても目に映らないんですね。
それ以来、竹の子は買いません(笑)


そうなんです。
と、言ってる私が、実は「目の前にあるのに気付かなかった人」なんですよ。
真竹の竹の子というものを知ったのは、この土地に引っ越して来てからです。
それまではスーパーで売ってる孟宗竹の竹の子だけでした。
で、真竹というのを食べてみたら、これが美味しいんです!
孟宗竹よりえぐみが無くてずっと美味しい。
それからは毎年近所の旧家の竹林へ行って真竹の竹の子をもらっていました。

実は・・・我が家の目の前に竹藪がありました・・・
それに気づかなかった、というか、「竹藪で竹の子採れば良い」という
当り前の、普通の知能の持ち主なら当然分かることが分からなかったんです。
これはヒドイです。
何てバカなんだろう・・・と、思いましたが、それで暗くならないのが私の良いところ。
気付いたからには竹の子採りが年中行事になりました。
去年からだけど。


目の前にあるものが見えないことを「あきめくら」「目が節穴」と言いますが
その通りです。
目に見えていてもそれを判断する脳の機能が悪いと私のようなことになる。

「気付きなさい」と言うのは簡単ですが、「では、何に気づいたら良いのですか?」
となると、難しい。
何に気づけば良いか分かっていたら既に気づいていますからね。
このように「目の前にあることに気づく」ことは大変難しいのです。
映画「プレステージ」に「人は何も見ていない」という台詞が何度も出て来ます。
その通りです。

<竹の子4>


ブログ「ここから・・・」の管理人さんも竹の子について書いてます。
2008年6月17日の記事です。



あと私が考えたのは,
たけのこは皮をかぶって守られてるけど竹は自分で生きていかなくてはならないこと。
これは子どもなら回りもかばってくれることをさします。
周りの大人が盾になって守ろうとする事につながる。
可愛がられる事も,かな?

たけのこはまっすぐで自分の方向が固まってるけど,
竹は伸びた分 風に(世間の意見かな?)揺られて自分が揺れやすいこと。
逆から見ればこれはしなる事で自分を守れるけど
たけのこのようにしならないと折れやすい事につながりますね。
子どもは自分のやりたいことを基本,
優先するのであまり揺れないはずだけど最近はタケノコに型をはめ込んでいるような気がする・・・

たけのこは土に隠れて見えない部分がありそことつながってるけど
竹は見えてるところだけ(人から)大切にされること。
子どもはまだ直感の世界の方が多いので無意識,潜在意識につながってるようだからです。
でも人が竹を見るときは上しか見ませんね。使える部分といえばいいかな。

地下茎で繋がってますね。

竹には葉があるので風でざわざわうるさいこと。
(口うるさいという意味で)とかくうわさに乗じる事につながってるように思う。

竹は見ても誰も心躍らないけど(居るかもしれませんが,少数でしょう)
タケノコを見るとわくわくする事。
特に小さい子はそういう力があると思う。


小さい子供は可愛いですよね!
大人をなごませます。